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​My story

チェロを始めるきっかけは、3歳の時の出来事。父が勤めていた京都市交響楽団にソリストとしてヨー・ヨー・マが来ており、リハーサルを聞いた僕は「チェロが弾きたい!!」と喚いていたそうです(笑)。今でこそ3歳からチェロを始めるお子さんも多いですが、当時母の判断で「もう少し大きくなったらね。」ということでお預けに。その後そんなことはすっかり忘れており、98年フランスW杯で日本が初出場した時にはサッカーに夢中になり、サッカークラブに入部したい と母に伝えると「サッカーも良いけどチェロもやりなさい。」と交換条件として(?)チェロを始めることになります。当時11歳、小学5年生の頃でした。

サッカーを始めた僕はチェロなんかそっちのけでボールを追いかける日々で、小学校はサッカークラブ、中学校ではテニス部(当時流行っていたテニスの王子様という漫画の影響か?)でした。中学3年生の夏、最後の大会で右膝の半月板を損傷してしまい、夏休みの間に手術することになり入院生活でぼーっと過ごしていた頃に、初めてチェロという道について考えます。秋から音楽高校の入試準備を始め、なんとか合格。

祖母も母も兄も通った堀音に通い始めますが、それまで熱心に打ち込んできたわけではないので自分の能力の低さと理想のギャップに苦しみます(そんなことは当然なのですが笑)。いつも完璧タイプの父、漫画レベルの天才少年だった兄、祖母や母はピアノの先生で...自分は努力を重ねてもうまくいかないし、自分のアイデンティティって…などと複雑な家庭環境もあり悩める毎日でした。そんな中で直感的に「自分は将来音楽教室をやろう。サッカーやテニスで学んだことを、音楽を通して、人が育まれる環境を作るんだ。」と強く思っていたことを覚えています。

大学は京芸に合格。しかしここから受難が待ち受けます。祖母の介護をしていた母が段々と記憶が曖昧になり、

生活能力を失っていきます。今で言うところの若年性認知症でした。祖母と母のダブル介護のような状況は、10代の頃の僕には到底受け入れることができず、荒れ狂っていたようです(周りの同級生らに聞くところによると笑)。

朝ご飯と昼ご飯を作ってから大学へ行き夕方に帰ってから夕飯や家事をして買い物、夜10時を回ってようやく

練習時間が取れた頃には心身ともにボロボロ。毎日泣きながらチェロを弾いてました。そんな中でモチベーション

を保てたのは、幸運にも一回生の頃からプロオケに呼んで貰えたことです。二回生ぐらいからは年間50公演くらい

乗せてもらっていたことが自分の何よりの糧でした。当時まだ10代の、髪の毛もブリーチしてパッサパサの金髪の僕をよく我慢して使って貰えたなと思います(笑)。感謝しかありません。

大学卒業してからも周りは留学などの進路を進むのを横目にオケのトラを続けていました。30歳を前に京フィル

という室内オケに入団。大所帯ではなく小編成のオケは、10年ほどトラを続けてきた自分にとっては凄く新鮮で、やっと自分の居場所を見つけたような気がしました。しかしそれも長く続かず…些細なことでオケの経営は崩れ、立て直しを図るも自分の信念のようなものが曲げられてしまうようなことが続き、退団を決意。プライベートも 全てフリーランスに戻った僕に、仲間が声を掛けてくれました。「今こそ響、ヨーロッパに来たら?」高校の時に出会い学生時代に組んでいたカルテットのメンバーがそれぞれヨーロッパでオケに就職していました。急ピッチで留学準備を進め、パリへ。

語学学校に通いながらコンサートに足を運んだり、スーパーでは苦労して買い物したり、パリを拠点に他の国へ旅をして仲間が働いているところを見たり…と、乾ききったスポンジにみるみると“音楽”が染み渡りました。半年間という短い期間でしたが、たっぷりの栄養(贅肉も)を蓄え帰国。

さて一から出直して頑張るぞというところに、やってきましたコロナさん。昔は忙殺して深夜に譜読みしていたのが信じられないほどの空虚な時間。でも自分を見つめ直す中で大切にしていきたい活動は自ずと見えてきました。

これまでの経験を糧に、今一度初心に返って、一歩ずつこの教室を育てていきたいと思っています。

いつの日かこの教室で学んだ子供が、サッカーのJリーグで得点王に輝いて、インタビューで「僕がここまで成長できたのは、Schola Hibiki で音楽を学んだ経験があったからこそです。」と答えてくれることを夢見ています!!

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